Tuesday, March 12, 2019

ジェームス・カーティス・ヘボンの略年譜 Hepburn's Biography, Personal Records of James Curtis Hepburn 

ジェームス・カーティス・ヘボンの略年譜


Hepburn's Biography, Personal Records of James Curtis Hepburn




西暦 和暦



ヘボンの祖先は、スコットランドのエディンバラから12マイルばかり東にあるハッディングトン州の地方に住んでいた名家である。

1815文化12

米国ペンシルヴァニア州ミルトンに生れる。写真はヘボンの生家。

1823?

ミルトンアカデミーに学んだが、その学校にアイルランド人でエディンバラ大学出身のデビッド・キルパトリョクという人がいて、そのすぐれた教育者の下で小・中学教育を受ける。

1831天保2

春、16歳でプリンストン大学の3年に編入。

在学中、教授アルバート・ドッドらすぐれた人物の感化を受ける。

ラテン・ギリシア・ヘブルの各語を学び、当時新しく大学の学科目に加えられた化学の知識を修得。

1832 天保3

秋、プリンストン大学を卒業。


ペンシルヴァニア大学医科入学する。

1836 天保7

ペンシルヴァニア大学卒業し、医学博士学位取得する。

1837 天保8

1年ばかり、西フィラデルフィアで留守中の友人の代診を勤める。

1838 天保9

秋、ペンシルヴァニア州ノリスタウンで開業。

1年ばかりこの地に滞留し、クララ・メリー・リート嬢と出会う。クララの父はコネチカット州の出身で古い州知事リート家の子孫だった。

クララ嬢はノリスクウンの学校教師として働くうちに、海外宣教の使命と開業医としての職業観との矛盾に苦しんでいたヘボンに会い、宣教医として海外に伝道せんとする志を語り合い、意気投合する。

1840天保11

1027 クラリッサ.メリー.リート(愛称クララ)と結婚。


ヘボン夫妻は新婚早々、なつかしい祖国をあとに東洋伝道に向う。

ボストンから出発する計画であったが、ボストンまでの交通が不便で乗り遅れる。

翌年の春まで船便を待つため、数か月間ボストンですごす。

1841天保12

夫妻で、東洋伝道に出発。


315日、月曜日午前10時、ボストン港出帆。見送りはクララ・ヘボンの父とミッションの主事老ラヴリー博士。

シンガポール経由で、アモイへ向かう。


512 船は「ポトマック」号という粗末な捕鯨船。夫人は船に弱く、身重であったので、赤道付近に達したころ流産。男子の死産児を水葬にした。


6月早々 蘭領東インド(インドネシア)のジャワ島に着き、バタビア(ジャカルタ)に上陸し、1泊して翌日乗船。


712 シンガポールに入港した。ヘボン夫妻はシャムの伝道を志したが、シンガポールに着いて計画を変更。

南シナのアモイの医療伝道をやることになり、阿片戦争のためしばらくここで待機。その間に中国語の研究につとめる。


7 シンガポールでギュッツラフ訳和訳聖書『約翰福音之傅』と出会う。

1843天保14

マカオを経由して、アモイに到着する。

1845 弘化2

1113 健康を害し、失意のうちに帰国。

1846 弘化3

ニューヨークにて、医院を開業。



18481859

開業当時、ニューヨークでアジアコレラが流行。ヘボンは中国における医療事業の経験もあり、その治療に成功。ニューヨークの評判となり、一躍して市内有数の名医となる。

ヘボンの学んだペンシルヴァニア大学医学部は眼科がもっとも充実していたので、その大学医学部出身のヘボンも眼科医としてすぐれていた。

開業医として経営の才もあり小規模の病院を拡張し、当時のニューヨーク市きっての病院となる。

1859 安政6

日本派遣宣教医の申出が受け入れられ、夫妻でニューヨークを出発。

大西洋を回り、上海経由、日本へ来る。


1017 横浜に到着。


神奈川の成仏寺に住み、本堂にて日曜礼拝を行う。

1860 安政 7

桜田門外の変が起こり、大老井伊直弼が水戸藩士に殺される。

1860 万延1

フランシス・ホール、デュアン・シモンズ博士夫妻らと神奈川宿近くの東海道で大名行列を見物。尾張徳川家の行列の先触れに跪くよう命じられたが、彼らは従わず立ったまま行列を見学。

1861 文久1

宗興寺にて、日本人を対象に施療活動を開始する。

1861 文久1

クララ夫人が暴漢に襲われ、肩を棒で殴られ負傷。

1862 文久2

生麦事件発生すぐが、負傷した英国人2人の応急処置をする。


横浜居留地39番に転居する。

1863 文久3

居留地39番にて英語塾(ヘボン塾)を開設。クララ夫人が授業担当。のちに明治学院に発展する。


箕作秋坪の紹介で、眼病を患った岸田吟香を治療。

1866 慶応2

9 『和英語林集成』の原稿を書き上げる。これを岸田吟香が手伝う。

1866 慶応2

夫妻は岸田吟香を伴い印刷発注のため上海へ行き、美華書院(アメリカ長老派教会の印刷所)へ出版を発注。

1867 慶応3

4 『和英語林集成』初版1200部を上海で発刊する。価格は18両。


伝道用日本語冊子「真理易知」(シンリイチ)5000部も出版。日本で作った版木を上海へ持ち込み上海で印刷。


三代目澤村田之助の左足膝上までを切断、アメリカから取り寄せた義足をつけて舞台をつとめさせる。

1870 明治3

聖書翻訳手伝いのため奧野昌綱を雇う。

1871明治4

ヘボン塾の女子部が、同僚の宣教師メアリー・キダーにより洋学塾として独立。この洋学塾はフェリス女学院の母体となる。

1872 明治5

横浜の自宅で、第一回在日宣教師会議を開催。


ヘボン、ブラウン共訳、奧野昌綱協力による「新約聖書馬可(マルコ)傅」を出す。


奧野昌綱との共訳「三要文(十戒、主の祈り、使徒信条)」発刊。

1873 明治6

ローマ字訳(英文対訳)「新約聖書」ニューヨークで出版。

1874 明治7

聖書翻訳委員会社中結成。メンバーはヘボン、ブラウン、グリーン、マクレー、ブラウンらである。


ヘボン診療所の場所に、ルーミスを初代牧師とし横浜第一長老公会を設立。

1876 明治9

横浜第一長老公会は、住吉町に会堂をたて住吉町教会とする。

1880明治13

翻訳委員会社中「新約全書」完成。

1885明治18

ヘボン式ローマ字を基にした「標準式ローマ字」制定される。写真は現在のヘボン式ローマ字表。

1886
  明治19

丸善商会が版権を取得し『和英語林集成』第3版を出版。価格は12円。お米が360キロ買える価格である。

1887
  明治20

私財を投じて、東京都港区白金の地に明治学院を創立。教頭として生理学、衛生学を坦当。


「旧新約全書」(明治訳)完成。

1888明治21

16年間を尽し、聖書翻訳事業完成。その祝賀会が開かる。

1889明治22

教会堂建築の基金としてミッションからの献金を募るため一時帰米する。


明治学院初代総理に就任する。

1892明治25

ヘボン夫妻、アメリカに帰る。

1893明治26

米国ニュージャージー州イーストオレンジに住み、隠居生活に入る。

1905明治38

313 日本政府より勲三等旭日賞受賞を受ける。

1906明治39

クララ夫人、逝去する。

1911
  明治44

921日 96歳で永眠する。
921日早朝 ヘボンが建てた「ヘボン館」は原因不明の火災で焼失


ヘボンの生い立ちに関する詳しい解説は、次のサイトをご覧ください。

http://ktymtskz.my.coocan.jp/forin/hebon1.htm

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