Tuesday, March 12, 2019



二人の漂流民、音吉と万次郎の略年譜


(春名徹『にっぽん音吉漂流記』などを参照)



和暦

西暦

音 吉

関連事件

文政2

1819

音吉、尾張国知多郡小野浦村に生まれる。

1827 万次郎誕生

天保31011

1832

宝順丸で三重県鳥羽浦を出帆、乗組員14名漂流。

1831 ロシア船蝦夷侵入


1834     

14カ月の漂流の後、米国西海岸ワシントン州フラッタリー岬に漂着。

音吉ら3人だけ生き残る。




現地のアメリカ・インディアンに救助されたが、奴隷としてこき使われる。

イギリス船に売り飛ばされる。

この船はハドソン湾会社の持船で、オレゴン・カントリーのアストリア砦に送られる。

会社は3人をマカオ行きのゼネラル・パーマー号に乗せる。






イギリス船に救われ、その船でロンドンへ。



1835.6

テムズ川に10日間停泊する。丸1日ロンドンを見学する。



1836     

マカオへ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフに保護される。初の和訳聖書執筆に協力する。



1837.4  

マカオで、九州出身の日本人漂流民4名と会う。


天保8. 6.28

1837.7.15

7名は日本送還のため、米船モリソン号に乗せられる。

浦賀に来航するが砲撃される。

モリソン号事件

天保8. 7.10

1837.8.10

モリソン号、鹿児島湾に入る。



1851

ギュツラフ、香港で亡くなる。


安政1

1854

日英和親条約提携のため、英軍スターリング艦隊に乗り組み通訳として長崎へ向かう。



1859

漂流民ジョセフ・ヒコと上海で会う。



1862

シンガポールに移る。

日本からの遣欧使節団が宿泊するホテルを訪ね、福沢諭吉らと会う。



1864

イギリスに帰化する。



1867.1.18

シンガポールにて死去、48歳。








万 次 郎


文政10・ 11

1827123

土佐国幡多郡中浜村谷前の漁師、悦介・母汐の次男として生れる。

1838 緒方洪庵、大阪に敵々塾

天保12・ 15

1841127

万次郎らは、土佐国高岡郡宇佐から出漁。


天保12・ 17

1841129

足摺岬でのアジ・サバ漁中に漂流、10日間漂う。


天保12・ 114

184125

鳥島に上陸し無人島生活が始まる。わずかな留水と海草、海鳥を食べ143日間生きながらえる。



天保12・ 59

1841627

捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される。



184112

ホノルル寄港、上陸する。



1841122

万次郎だけホイット・フィールドとともにホノルル出港、捕鯨を続ける。






18421

捕鯨船員となる。

1842 異国船打払令


184357

マサチューセッツ州フェアヘブン着く。地元の小学に学び、アメリカ大陸での生活が始まる。




スコンチカットネックに移り、地元の学校で学ぶ。



1844

バートレット・アカデミーで航海術や高等数学などを学ぶ。



1846516

フランクリン号に乗り込み捕鯨航海に出る。

1845 米船が浦賀に、英船が長崎に入港


18485

一等航海士になる。



184910

カルフォルニアに向かう。



18505

カルフォルニアの金山に入り、一獲千金を狙う。



18508

ホノルルに着く。



嘉永413

185123

アメリカ船で、琉球の摩文仁海岸に上陸。   

1851 佐久間象山、江戸に砲術塾

嘉永481

1851827

鹿児島着、島津斉木杉の聴取を受ける。


嘉永4929

18511023

長崎着、 長崎奉行の取り調べ始まる。




白州での尋問は18回に及ぶ。


嘉永5711

1852825

高知に着く。

土佐藩主山内豊信公の命で吉田東洋から70日の取調べを受ける。


嘉永5105

18521116

中ノ浜に帰着、高知城下の高知城下の藩校「教授館」の教授となる。

後藤象二郎、岩崎弥太郎はここで直接指導を受ける。



嘉永51212

1853121

土佐藩に登用される。


嘉永6830


ペリー来航に伴い江戸に召され、万次郎は本所の江川左衛門邸内に住む。


嘉永6117

1853125 

老中首席からの召喚状が土佐藩に届き、幕府の直参となる。


安政1 

1854

団野鉄と結婚

日米和親条約締結



幕府の命により西洋型帆船の建造に取りかかる。


安政2

1855

我が国初の航海学書・年表(アメリカ合衆国航海学書)を筆書。

『和蘭字彙』完成

安政44

1857     

軍艦教授所の教授に任命される。


安政46


航海書を翻訳、完成。


安政410


捕鯨術伝習のため箱館へ出張。

1858 日米修好通商条約締結

安政63

1859

幕府の命により小笠原近海で捕鯨。


安政6


英会話書『日米対話捷径』を編む。


安政7113


勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など、咸臨丸でアメリカへ向けて出航。


安政7119

1860210

批淮使節団の一員として咸臨丸に乗り込み浦賀を出港する。艦長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎他総勢96名。


安政7226

1860317

咸臨丸にてサンフランシスコに着く。


万延1825

1860     

軍艦操練所教授方を免職される。


文久112

1861

小笠原の開拓調査に赴く。

水戸浪士らによる英公使館襲撃

文久2721

1862

妻、鉄24歳で病死。

初の英和辞典出版

元治17

1864

薩摩藩の開成所教授に赴任。

1863 薩英戦争



航海、造船、測量、英語を教授。

1865 五代友厚ら英留学

慶応21

1866     

高知の開成館に赴任する


慶応34

1867

薩摩藩の開成所で教授を続ける。

音吉死去

明治11023

1868

再び土佐藩にかかえられる。

慶応義塾の開校

明治23

1869     

明治政府の命を受け開成学校二等教授に明治3年には中博士(教授)となる。



1870924

普仏戦争視察の一員としてヨーロッパ出張のため横浜を出帆。





(写真は48歳のときのもの)




71 ロンドンから帰って間もなく軽い脳溢血で倒れるが全快する。




中浜にも数度帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞う。


明治31 1112

1898

東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で、71歳で亡くなる。



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