二人の漂流民、音吉と万次郎の略年譜
(春名徹『にっぽん音吉漂流記』などを参照)
和暦
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西暦
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音 吉
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関連事件
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文政2
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1819
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音吉、尾張国知多郡小野浦村に生まれる。
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1827 万次郎誕生
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天保3・10・11
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1832
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宝順丸で三重県鳥羽浦を出帆、乗組員14名漂流。
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1831 ロシア船蝦夷侵入
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1834
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14カ月の漂流の後、米国西海岸ワシントン州フラッタリー岬に漂着。
音吉ら3人だけ生き残る。
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イギリス船に売り飛ばされる。
この船はハドソン湾会社の持船で、オレゴン・カントリーのアストリア砦に送られる。
会社は3人をマカオ行きのゼネラル・パーマー号に乗せる。
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イギリス船に救われ、その船でロンドンへ。
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1835.6
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テムズ川に10日間停泊する。丸1日ロンドンを見学する。
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1836
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マカオへ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフに保護される。初の和訳聖書執筆に協力する。
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1837.4
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マカオで、九州出身の日本人漂流民4名と会う。
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天保8. 6.28
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1837.7.15
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7名は日本送還のため、米船モリソン号に乗せられる。
浦賀に来航するが砲撃される。
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モリソン号事件
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天保8. 7.10
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1837.8.10
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モリソン号、鹿児島湾に入る。
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1851
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ギュツラフ、香港で亡くなる。
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安政1
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1854
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日英和親条約提携のため、英軍スターリング艦隊に乗り組み通訳として長崎へ向かう。
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1859
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漂流民ジョセフ・ヒコと上海で会う。
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1862
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シンガポールに移る。
日本からの遣欧使節団が宿泊するホテルを訪ね、福沢諭吉らと会う。
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1864
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イギリスに帰化する。
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1867.1.18
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シンガポールにて死去、48歳。
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万 次 郎
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文政10・ 1・1
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1827・1・23
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土佐国幡多郡中浜村谷前の漁師、悦介・母汐の次男として生れる。
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1838 緒方洪庵、大阪に敵々塾
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天保12・ 1・5
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1841・1・27
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万次郎らは、土佐国高岡郡宇佐から出漁。
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天保12・ 1・7
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1841・1・29
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足摺岬でのアジ・サバ漁中に漂流、10日間漂う。
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天保12・ 1・14
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1841・2・5
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鳥島に上陸し無人島生活が始まる。わずかな留水と海草、海鳥を食べ143日間生きながらえる。
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天保12・ 5・9
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1841・6・27
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捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助される。
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1841・12
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ホノルル寄港、上陸する。
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1841・12・2
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1842・1
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捕鯨船員となる。
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1842 異国船打払令
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1843・5・7
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マサチューセッツ州フェアヘブン着く。地元の小学に学び、アメリカ大陸での生活が始まる。
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スコンチカットネックに移り、地元の学校で学ぶ。
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1844
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バートレット・アカデミーで航海術や高等数学などを学ぶ。
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1846・5・16
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フランクリン号に乗り込み捕鯨航海に出る。
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1845 米船が浦賀に、英船が長崎に入港
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1848・5
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一等航海士になる。
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1849・10
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カルフォルニアに向かう。
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1850・5
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カルフォルニアの金山に入り、一獲千金を狙う。
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1850・8
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ホノルルに着く。
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嘉永4・1・3
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1851・2・3
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アメリカ船で、琉球の摩文仁海岸に上陸。
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1851 佐久間象山、江戸に砲術塾
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嘉永4・8・1
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1851・8・27
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鹿児島着、島津斉木杉の聴取を受ける。
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嘉永4・9・29
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1851・10・23
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長崎着、 長崎奉行の取り調べ始まる。
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白州での尋問は18回に及ぶ。
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嘉永5・7・11
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1852・8・25
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高知に着く。
土佐藩主山内豊信公の命で吉田東洋から70日の取調べを受ける。
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嘉永5・10・5
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1852・11・16
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中ノ浜に帰着、高知城下の高知城下の藩校「教授館」の教授となる。
後藤象二郎、岩崎弥太郎はここで直接指導を受ける。
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嘉永5・12・12
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1853・1・21
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土佐藩に登用される。
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嘉永6・8・30
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ペリー来航に伴い江戸に召され、万次郎は本所の江川左衛門邸内に住む。
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嘉永6・11・7
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1853・12・5
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老中首席からの召喚状が土佐藩に届き、幕府の直参となる。
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安政1
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1854
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団野鉄と結婚
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日米和親条約締結
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幕府の命により西洋型帆船の建造に取りかかる。
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安政2
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1855
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我が国初の航海学書・年表(アメリカ合衆国航海学書)を筆書。
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『和蘭字彙』完成
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安政4・4
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1857
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軍艦教授所の教授に任命される。
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安政4・6
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航海書を翻訳、完成。
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安政4・10
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捕鯨術伝習のため箱館へ出張。
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1858 日米修好通商条約締結
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安政6・3
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1859
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幕府の命により小笠原近海で捕鯨。
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安政6
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英会話書『日米対話捷径』を編む。
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安政7・1・13
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勝海舟、福沢諭吉、ジョン万次郎など、咸臨丸でアメリカへ向けて出航。
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安政7・1・19
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1860・2・10
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批淮使節団の一員として咸臨丸に乗り込み浦賀を出港する。艦長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎他総勢96名。
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安政7・2・26
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1860・3・17
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咸臨丸にてサンフランシスコに着く。
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万延1・8・25
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1860
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軍艦操練所教授方を免職される。
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文久1・12
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1861
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小笠原の開拓調査に赴く。
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水戸浪士らによる英公使館襲撃
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文久2・7・21
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1862
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妻、鉄24歳で病死。
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初の英和辞典出版
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元治1・7
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1864
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薩摩藩の開成所教授に赴任。
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1863 薩英戦争
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航海、造船、測量、英語を教授。
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1865 五代友厚ら英留学
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慶応2・1
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1866
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高知の開成館に赴任する
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慶応3・4
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1867
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薩摩藩の開成所で教授を続ける。
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音吉死去
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明治1・10・23
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1868
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再び土佐藩にかかえられる。
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慶応義塾の開校
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明治2・3
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1869
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明治政府の命を受け開成学校二等教授に明治3年には中博士(教授)となる。
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1870・9・24
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(写真は48歳のときのもの)
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71歳 ロンドンから帰って間もなく軽い脳溢血で倒れるが全快する。
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中浜にも数度帰省し、老母(明治12年に86才で病死)を見舞う。
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明治31・ 11・12
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1898
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東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で、71歳で亡くなる。
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