天保12年(1841)
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3月23日
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儒医福地苟庵の第八子(長男)として長崎新石灰町に生まれる
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4歳の時に父から儒学・漢学の教えを受ける
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安政2年 (1855)
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7月
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15歳で蘭大通詞名村八右衛門の門に入り、オランダ語を学び始める
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安政3年(1856)
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12月
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源一郎と改名、才能を見込まれ名村家の養子となる
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安政4年(1857)
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海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出る
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安政6年(1859)
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3月
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長崎から江戸小石川森山の塾に入る。しばらくして塾頭となる
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アメリカ帰りの中浜万次郎に英会話を学ぶ
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安政4年(1857)
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8月
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飽ノ浦製鉄所の伝習所係を申しつかる
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オランダ風説書(新聞)の翻訳に関わる
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安政5年(1858)
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7月
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問題を起こし名村家を去る
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12月
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咸臨丸で江戸に上る
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安政6年(1859)
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1月
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矢田堀宅に落ち着き、儒者安積斎に学ぶ
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安政6年(1859)
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3月
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森山塾に寓し英語を学ぶ 福沢諭吉らと知り合う
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5月
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外国奉行支配通弁御用御雇を申し渡される
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万延1年(1860)
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4月
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外国奉行支配同心格通弁御用として幕府御家人に出世
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文久1年(1861)
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21歳で鎌田さと子と結婚
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12月
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ヨーロッパ6カ国の遣欧使節に通弁方として随行
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文久3年(1863)
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2月
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帰朝後この頃まで殆んど城中にも出仕せず自宅で調査仕事ばかりさせられる
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文久3年(1863)
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5月
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水野忠徳らとクーデターを計るが失敗
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慶応1年(1865)
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5月
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横須賀製鉄所建設御用のため外国奉行柴田日向守に随いフランスに渡る
フランスでロニーからフランス語と西洋の国際事情について学ぶ
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慶応2年(1866)
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1月
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フランスより帰国
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慶応2年(1866)
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3月
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3月に帰国
その後、外国奉行支配調役格、通弁御用頭取に昇進し蔵米150俵3人扶持を与えられ旗本の身分に取り立てられるが、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽る
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6月頃
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下谷二長町の自宅に塾を開きフランス語と英語を教授するが、奉行や目付の警告で断念
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慶応4年(1868)
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4月
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自らの仕事を求め、『江湖新聞』を発刊する
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5月
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佐幕的論評で逮捕されが、翌月釈放される
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9月
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政府の命令で一時家族と離れ静岡に移り住む
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明治1年(1868)
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11月
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新政府の命令で東京に戻されるが御用なし
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士籍から抜け浅草馬道に住む 戯作・翻訳を生業とする
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明治2年(1869)
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10月
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新堀端の厳念寺で外国語の学塾を開くが失敗に終わる。
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再び湯島天神下に日新舎を開き仏語と英語を教授
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11月
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英和字典Aの部の30枚を持参
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明治3年(1870)
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渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入る
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明治3年(1870)
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11月
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伊藤博文に随行して渡米、会計法などを調査し、翌年5月帰国
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明治4年(1871)
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11月
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岩倉使節に随行して米・欧州を歴訪
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明治6年(1873)
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使節団一行と別れて、トルコを視察して帰国
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明治12年(1879)
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リットン『マネイ(人間万事金世中)』などフランスやイギリスの戯曲や小説を翻案して、河竹黙阿弥や三遊亭圓朝に提供
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明治17年(1884)
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ビーコンズフィールド(ベンジャミン・ディズレーリ)『春鶯囀』を翻訳
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明治20年(1887)
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翻訳したベンジャミン・ディズレーリ『カニングスビー』は青少年に歓迎され、北村透谷もこれに感銘を受けたと言われる
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ここ2世紀あまりにおける日本の近代化は英語とともにあった。おおくの英米人がそれに関わった。同時に、英語を学ぶことによって、日本の駿才たちは日本を欧米諸国と対等の国にしようとした。このブログでは、そんな日本人や英米人を取り上げたい。
Tuesday, March 12, 2019
福地源一郎と洋学との係わり
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