Tuesday, March 12, 2019

福地源一郎と洋学との係わり

福地源一郎と洋学との係わり





天保12(1841)


323

儒医福地苟庵の第八子(長男)として長崎新石灰町に生まれる



4歳の時に父から儒学・漢学の教えを受ける

安政2 (1855)

7

15歳で蘭大通詞名村八右衛門の門に入り、オランダ語を学び始める

安政3(1856)

12

源一郎と改名、才能を見込まれ名村家の養子となる

安政4(1857)


海軍伝習生の矢田堀景蔵に従って江戸に出る

安政6(1859)

3

長崎から江戸小石川森山の塾に入る。しばらくして塾頭となる



アメリカ帰りの中浜万次郎に英会話を学ぶ

安政4(1857)

8

飽ノ浦製鉄所の伝習所係を申しつかる



オランダ風説書(新聞)の翻訳に関わる

安政5(1858) 

7

問題を起こし名村家を去る


12

咸臨丸で江戸に上る

安政6(1859)

1

矢田堀宅に落ち着き、儒者安積斎に学ぶ

安政6(1859)

3

森山塾に寓し英語を学ぶ 福沢諭吉らと知り合う


5

外国奉行支配通弁御用御雇を申し渡される

万延1(1860) 

4

外国奉行支配同心格通弁御用として幕府御家人に出世

文久1(1861)


21歳で鎌田さと子と結婚


12

ヨーロッパ6カ国の遣欧使節に通弁方として随行

文久3(1863)

2

帰朝後この頃まで殆んど城中にも出仕せず自宅で調査仕事ばかりさせられる

文久3(1863)

5

水野忠徳らとクーデターを計るが失敗

慶応1(1865)

5

横須賀製鉄所建設御用のため外国奉行柴田日向守に随いフランスに渡る

フランスでロニーからフランス語と西洋の国際事情について学ぶ

慶応2(1866) 

1

フランスより帰国

慶応2(1866)

3

3月に帰国

その後、外国奉行支配調役格、通弁御用頭取に昇進し蔵米1503人扶持を与えられ旗本の身分に取り立てられるが、開国論の主張が攘夷派に敵視されて不平に堪えず遊蕩に耽る


6月頃

下谷二長町の自宅に塾を開きフランス語と英語を教授するが、奉行や目付の警告で断念

慶応4(1868)

4

自らの仕事を求め、『江湖新聞』を発刊する


5

佐幕的論評で逮捕されが、翌月釈放される


9

政府の命令で一時家族と離れ静岡に移り住む

明治1(1868)

11

新政府の命令で東京に戻されるが御用なし



士籍から抜け浅草馬道に住む 戯作・翻訳を生業とする

明治2(1869)

10

新堀端の厳念寺で外国語の学塾を開くが失敗に終わる。



再び湯島天神下に日新舎を開き仏語と英語を教授


11

英和字典Aの部の30枚を持参

明治3(1870)


渋沢栄一の紹介で伊藤博文と意気投合して大蔵省に入る

明治3(1870)

11

伊藤博文に随行して渡米、会計法などを調査し、翌年5月帰国

明治4(1871)

11

岩倉使節に随行して米・欧州を歴訪

明治6(1873)


使節団一行と別れて、トルコを視察して帰国

明治12(1879)


リットン『マネイ(人間万事金世中)』などフランスやイギリスの戯曲や小説を翻案して、河竹黙阿弥や三遊亭圓朝に提供

明治17(1884)


ビーコンズフィールド(ベンジャミン・ディズレーリ)『春鶯囀』を翻訳

明治20(1887)


翻訳したベンジャミン・ディズレーリ『カニングスビー』は青少年に歓迎され、北村透谷もこれに感銘を受けたと言われる

 福地源一郎については、次のサイトが興味深い。写真も多数掲載されていますので、ぜひ、ご覧ください。異彩の人、福地桜痴

堀 達之助 年譜 Chronological Record of Tatsunosuke HORI




堀 達之助 年譜





A Chronological List of Main Events of the Life of Tatsunosuke Hori (1823 - 1894), Dutch Interpreter and the First Lexicographer of English-Japanese Dictionary



   
西暦 年齢

 

( )

事   項

文政6

1823

11(or 12)23

蘭通詞・中山作三郎と妻陳との五男として生まれる。




幼少にして蘭通詞・堀儀左衛門政信の養子となって堀家を嗣ぐ。




堀の娘フサと結婚。

天保11

1840 17


長男・―郎(政正)生まれる。

弘化1

1844 21


次男・孝之生まれる。

弘化2

1845 22


小通詞末席に任じられる。浦賀詰を命じられる。

弘化3

1846 23

527

浦賀に米国艦隊来訪。司会長官ジエイムス・ビッドル(Commodore James Biddle) の通商開始の要求に通詞として応対。

弘化4

1847 24


小通詞並に昇進。

嘉永3

1850 27

33

妻フサ没、行年29

嘉永6

1853 30

63

浦賀にて、米国艦隊来訪司会長官ペリー提督 (Commodore Matthew Calbrath Perry) と幕府側の首席通詞として応対。



アメリカ側通訳のオランダ人アントン・ポートマン(Anton L.C.Portman後に駐日米国代理公使)を介しオランダ語で交渉。



612

ペリー艦隊が日本を去るまで、多くの通弁と外交文書の翻訳に奮闘。

嘉永7

1854 31

116

ペリーの艦隊が再び来訪、達之助は次席通詞として応対。

主として外交文書の翻訳に従事。

この年、下田の開港に伴い、下田詰を命ぜらる。

安政2

1855 32

1

アメリカ合衆国大統領フランク・ピールスの使節として海軍中佐アダムスが来日、達之助は日本側通詞の代表として応対。

日本亜米利加合衆国和親条約批准に関する外交文書を翻訳。



2

下田を訪れたたロシア国使節プチャーチンよりの文書を翻訳。



5月 

来国商船グレク号(ドイツ船籍)下田に人港。船長タウロフ及び来商人ルュドルフ(ドイツ人)をアメリカ人として受け入れる。



623

商人ルュドルフ及びグレタ号船長タウロフからの日独通交要請書簡を預かるが、奉行に提出しなかった。

これが達之助の失脚につながり、5年の刑を宣告される。



94

江戸小伝馬町の獄に人牢。

安政3

1856 33


在獄。

安政4

1857 34


在獄。

安政5

1858 35


在獄。

安政6

1859 36

79

吉田松陰が江戸獄の西奥揚屋に人牢して来た。松陰としては二度目の江戸獄。


当時、達之助は、同じ江戸獄の東口揚屋の牢名主であった。獄中よりの松陰書簡のなかに、しばしば達之助のことが記される。



1117

蕃書調所頭取・古賀謹―郎の尽力により、刑期の満了を待たず達之助は赦免、釈放。



127

蕃書調所の翻訳方に採用される。

また『英和対訳袖珍辞書』の編集主任に任ぜられる。

万延1

1860 37


蕃書調所よリ Familiar Method for Those Who Began to Learn the English Language を出版するが、達之助はその序文を書く。



113

蕃書調所の教授手伝に任ぜられる。

文久1

1861 38


蕃書調所の教授方に昇進。




長男の政正(21歳)は、英語小通詞末席に任ぜられる。



12

長男改正は外国奉行水野筑後守の小笠原巡視に随行する。




堀達之助ら蕃書調所の翻訳方によって、バタビヤ発行のオランダ新聞を翻訳した官板バタビヤ新聞が発行される。

文久2

1862 39

1

官板海外新聞と改題。



8

洋書調所から堀達之助を編集主任とする『英和対訳袖珍辞書』初版200部が刊行される。協力者は、西周助、千村五郎、竹原勇之助、箕作貞―郎(鱗祥)。




12

開成所の教授に就任。

文久3

1863 40

9

薩摩藩の五代才助、寺島宗則、森有礼等19名が幕府の禁令をおかし英国留学のため密かに出発。

慶応1

1865 42

222

薩摩藩士五代才助(友厚)らの英国行に、次男・堀孝之が通訳者として同行。



3

達之助は開成所教授職のまま、箱館奉行所通詞の兼務を命ぜられる。



6

運上所(現在の税関)構内で開いた英語稽古所で後輩通詞の教育にもあたる。




次男・孝之はヨーロッパより帰国し、薩摩藩の船奉行見習に任ぜられる。

慶応2

1866 43

3

次男・孝之、パリ万国博覧会への薩摩藩使節に同行。



11

明治新政府の北海道箱館(現在の函館)裁判所文式学校掛に任命される。




英語通詞の育成にあたる。また、「函館文庫」を作り箱館奉行所の洋書の保存に努める。

明治1

1868 45


二等訳官に任ぜられる。

明治2

1869 46

3

開拓使権大主典に任ぜられる。




このころ、豪商・柳田藤吉が函館に作った「北門社郷塾」および開拓使立函館学校の英語教師も務める。

明治3

1870 47

3

開拓使大主典に任ぜられる。



7

―等訳官に任ぜられる。

明治5

1872 49

3

後妻の美也没する。



617

依願退職し故郷の長崎に戻る。二通の建言書を提出。



10

退官後は達五と改名、表立った活動はない。

明治27

1894 71


大阪の次男・堀孝之方で病没。

明治32

1899

315

長崎市鍛冶屋町の大音寺に改葬。